天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)

勝運の神さまとして知られる、天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)。

名前に「穂」という字がある通り、「稲穂」の守り神であり、農業神としても知られています。

『日本書紀』には、正勝吾勝勝速日天忍穗耳尊(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)という長い名前で登場する神さまですよ。

この長い名前は、実は生まれに由来するのですが・・・。

天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)はどんな神さまで、どんな神話があるのでしょう?

天忍穂耳命とは?

天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)は、素戔嗚命(スサノオノミコト)が姉・天照大御神(アマテラスオオミカミ)と誓約(うけい)をして、生まれた五柱の神さまの一柱です。

父・伊邪那岐尊(イザナギノミコト)から海を治めるように命じられたのに、亡くなった母・伊耶那美命(イザナミノミコト)を恋しがるあまり、母のいる根の国(あの世)に行くと願った素戔嗚命(スサノオノミコト)。

怒った伊邪那岐尊(イザナギノミコト)に追放されてしまい、根の国に行く前に天照大御神(アマテラスオオミカミ)に別れの挨拶をしようと、高天原に向かいます。

ところが、乱暴な弟が攻めてきたと勘違いした天照大御神(アマテラスオオミカミ)に武装して出迎えられてしまい、なんとかして自分の潔白を証明しようとしました。

「自分の身が潔白なら、男が生まれる」と姉の勾玉(まがたま)を借りて口の中に含み、噛み砕いて吐き出したのです。

すると、五柱の男の神様が生まれ落ち、誓約(うけい)に勝った素戔嗚命(スサノオノミコト)は、高らかに勝利を宣言します。

このときの勝ち名乗りは、最初に生まれた天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)の『日本書紀』での名前の最初の部分、「正勝吾勝勝速日(マサカツアカツカチハヤヒ)」だったのだとか。

こうして、天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)は長い名前を持つ神さまとなったのです。

ちなみに、この誓約(うけい)のとき、素戔嗚命(スサノオノミコト)の剣を噛み砕いた天照大御神(アマテラスオオミカミ)は、宗像三女神(むなかたさんじょしん)を生みました。

素戔嗚命(スサノオノミコト)が勾玉(まがたま)を噛み砕いて生まれたのだから、素戔嗚命(スサノオノミコト)の子供じゃないの・・・?と疑問を持たれるかもしれませんね。

もともと、勾玉(まがたま)が天照大御神(アマテラスオオミカミ)のものだったので、二柱の姉弟神は、生まれた子供を取り替えたのです。

こうして、天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)は天照大御神(アマテラスオオミカミ)の子供になったのでした。

天忍穂耳命にまつわる神話

天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)は、長い名前の始めに「正勝吾勝勝速日(マサカツアカツカチハヤヒ)」と3つも「勝(カツ)」という字を持ちながら、実は一度も戦に赴いたことがなく、戦闘に勝った経験もない神さまです。

天照大御神(アマテラスオオミカミ)は、「葦原中国(あしはらのなかつくに)は、自分の子である天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)が治めるべきだ」と考えるようになりました。

そこで、天降りを天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)に命じたのです。

ところが、天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)は覗いた下界のあまりの騒がしさに「あんなところは私の手に負えません」と断ってしまいます。

困った天照大御神(アマテラスオオミカミ)は、「葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定するために、どの神を派遣したらよいか」と他の神々と相談し、天若日子(アマノワカヒコ)を遣わすことになりました。

しかし、天若日子(アマノワカヒコ)は葦原中国(あしはらのなかつくに)の大国主命(オオクニヌシノミコト)の娘と結婚してしまい、高天原に帰ってきません。

仕方がないので、武御雷之男神(タケミカヅチノオガミ)を派遣し、大国主命(オオクニヌシノミコト)と戦わせ、さらに交渉させたのです。

武御雷之男神(タケミカヅチノオガミ)は、見事に交渉を実らせ、葦原中国(あしはらのなかつくに)を譲らせることに成功しました。

葦原中国(あしはらのなかつくに)は平定され、もはや天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)が「手に負えない」と感じた状態ではありません。

ところが、天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)は高天原から離れようとせず、自分の子・瓊々杵命(ニニギノミコト)を地上に送るよう、天照大御神(アマテラスオオミカミ)に願い出たのです。

天照大御神(アマテラスオオミカミ)はこの申し出を受け入れ、孫である瓊々杵命(ニニギノミコト)を地上に送ることになりました。

天忍穂耳命の神話に影響した史実は?

日本の神さまの歴史・事績を記録した『古事記』。

その編纂が始まったのは第40代天武天皇(てんむてんのう)の時代で、完成したのは712年(和銅5年)、第43代元明天皇(げんめいてんのう)の御世でした。

天武天皇(てんむてんのう)が崩御したあとに即位したのは、皇后だった第41代持統天皇(じとうてんのう)なのは、皆さんご存じですよね?

夫妻の間には、草壁皇子(くさかべのみこ)という皇子がいました。

しかし体が弱かったのか、草壁皇子(くさかべのみこ)は持統天皇(じとうてんのう)の即位から3年後、天皇に即位することのないまま、27歳の若さでこの世を去ってしまいます。

持統天皇(じとうてんのう)は、草壁皇子(くさかべのみこ)の忘れ形見である孫の軽皇子(かるのみこ)を後見しながらその成長を待ち、14歳になると即位させました。

第42代文武天皇(もんむてんのう)は、祖母から譲位され、当時としては異例の若さで皇位についたのですが・・・。

この史実、何かに似ていませんか?

天照大御神(アマテラスオオミカミ)の孫・瓊々杵命(ニニギノミコト)が葦原中国(あしはらのなかつくに)に降り立った、天孫降臨(てんそんこうりん)を思い出しませんか?

おそらく、祖母から孫への天皇位の受け渡しという史実が、『古事記』の天孫降臨の記述に影響を与えたのでしょう。

また、完成したときの天皇・元明天皇(げんめいてんのう)は、草壁皇子(くさかべのみこ)の妃で、文武天皇(もんむてんのう)の実母でもあります。

天照大御神(アマテラスオオミカミ)に、地上を治めなさいと言われても果たせなかった天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)。

もしかしたら、持統天皇(じとうてんのう)や元明天皇(げんめいてんのう)は、若くして皇位につくことなく亡くなった草壁皇子(くさかべのみこ)の面影を、天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)に重ねていたのかもしれませんね。

天忍穂耳命が祀られている神社

天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)が祀られている神社の代表的なものをご紹介します。

阿賀神社(あがじんじゃ)

滋賀県東近江市に鎮座。太郎坊宮(たろうぼうぐう)という通称で知られています。
第33代推古天皇(すいこてんのう)の御世に、聖徳太子(しょうとくたいし)が四天王寺の瓦を焼く寺を創建しました。

同じ頃、赤神山(あかがみやま)に天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)を祀るお社が建てられたのが創建の由来とされています。創建から1400年以上もの歴史を持つ、古いお社です。

英彦山神宮(ひこさんじんぐう)

福岡県田川郡に鎮座。詳しい創建の由来は不明ですが、古くから英彦山(ひこさん)は神の宿る山として信仰されてきました。北岳に天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)、南岳に伊邪那岐尊(イザナギノミコト)、中岳に伊耶那美命(イザナミノミコト)を祀っています。

一説によれば、天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)が英彦山(ひこさん)に降り立ったので、その地に祠を建てて祀ったのだとも言われていますよ。

西寒多神社(ささむたじんじゃ)

大分県大分市に鎮座。三韓征伐からの帰還途中に神功皇后(じんぐうこうごう)が西寒方山(にしかたやま)に登り、山頂に白旗を立てたのを、地元の人が祀っていました。第15代応神天皇(おうじんてんのう)の御世、山頂の祭祀の場に、武内宿禰(たけのうちのすくね)が祠を建てたのが創建の由来だと言われています。

西寒多大神(ささむたのおおかみ)として、天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)は天照大御神(アマテラスオオミカミ)、月読尊(ツクヨミノミコト)とともに祀られています。

許波多神社(こはたじんじゃ)

京都府宇治市に鎮座。

戦国時代に焼失したため、古い社伝が残っていませんが、天武天皇(てんむてんのう)や坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が戦勝祈願をした勝運の神社として知られています。

645年(大化元年)に、第36代孝徳天皇(こうとくてんのう)の命令により、中臣鎌足(なかとみのかまたり)が創建したのが始まりと伝えられる、創建から1300年以上経つ古いお社です。

明治時代になると、陸軍の火薬製造所建設のため社有地を召し上げられたため、御旅所だった現在地に遷座しました。

二宮神社(にのみやじんじゃ)

兵庫県神戸市に鎮座。古い社伝が残っておらず、詳しい創建の由来は不明ですが、「神戸」という地名の由来になった生田神社(神戸市中央区)を建立する際、生田神社を囲むように皇室の祖霊を祀る神社を建てたのが創建の由来とされています。

生田神社を囲む8つの神社は生田裔神八社(いくたえいしんはっしゃ)と呼ばれ、二宮神社はそのひとつ。数字の順に一宮神社から参拝すると厄除けになると言われています。

まとめ

天照大御神(アマテラスオオミカミ)と素戔嗚命(スサノオノミコト)の誓約(うけい)により、生まれた天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)。

古文書に残る正式な名前は、正勝吾勝勝速日天忍穗耳尊(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)と「勝(カツ)」という字が3つも入った長いもの。

「穂」という字が名前に含まれているように、稲穂の守り神であり、農業の守り神でもあります。

また、「勝」という字が3つも名前にあることから、勝運の神さまとして深く信仰されてきました。

ところが、不思議なことに、天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)は戦には出たことがありません。

地上の国を統治することなく、『古事記』『日本書紀』から姿を消してしまう天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)。

もしかしたら、記紀成立の時代に即位せずに亡くなった、草壁皇子(くさかべのみこ)の面影が投影されたのかもしれません。

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