『古事記』と『日本書紀』に描かれた、天孫降臨の神話。
高天原から、天照大御神(アマテラスオオミカミ)の孫・瓊々杵命(ニニギノミコト)が神々を連れ、葦原の中津国を治めるために下ってきた神話です。
この神話と、日本に稲作が伝来したのは、どちらが早かったのか、皆さんはお考えになったことがありますか?
あるいは、稲作は神話のエピソードから天孫降臨によってもたらされたものでしょうか。今回は近年の考古学上の成果を元にした考えを、お伝えしましょう。
天孫降臨とはどんな神話なのか
天孫降臨は、天照大御神の孫となる瓊々杵命が、高天原から葦原の中津国をおさめるために、多くの神々とともに地上に降り立った神話。
高天原から降り立った神々を、天津神と言い、これに対して、もともと地上にいた神々のことを国津神と言います。
瓊々杵命の地上への道案内を果たしたのは、国津神の一柱である猿田彦神(サルタヒコノカミ)であったことで有名です。
このとき瓊々杵命は、三種の神器を持って降り立ったといいます。三種の神器とは、八咫鏡(やたのかがみ・伊勢神宮内宮の御神体)、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ・熱田神宮の御神体)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま・現在は赤坂御所に安置)の総称。
新しい天皇の即位時に、天皇である証として先代天皇から継承される、天皇家にとって非常に大切な神器です。
天皇の位を証しする三種の神器を携えた瓊々杵命が、葦原の中津国に降り立った天孫降臨は、いつ頃のことだったのでしょう?
天孫降臨の時期に関する考察
残念ながら、天孫降臨がいつ頃のことだったのかについては、現代でもはっきりとはしていません。
古代の日本には文字がなかったため、文字史料が残っていないからです。
この記事では、2つの手がかりを元に考察した天孫降臨の時期をご紹介しますね。
神武天皇の即位年から逆算して考える、天孫降臨の時期
1つ目の手がかりは、『日本書紀』と初代神武天皇です。
『日本書紀』によれば、神武天皇は、紀元前660年の2月11日に即位し、76年間在位したのち、127歳で崩御しました。
現代でも、男性の世界最高齢は112歳(2020年4月現在、イギリス在住)ですから、神武天皇はかなりの長生きですよね?
ただし、『旧約聖書』の創世記に出てくる登場人物のように、900年以上生きたというような、途方もない長生きではありません。
神武天皇は本当に長生きだったのか、あるいは古代の天皇の年齢の数え方が違っていたのでしょうか。
『旧約聖書』のように途方もない長寿ではないことから、古代の天皇は、年齢の数え方が異なっていたのではないか、という説が提唱されています。
この説によれば、古代の天皇は、即位するまでの年齢は半年に1歳(1年に2歳年を取る)、即位後は季節ごとに1歳(1年に4歳年を取る)という計算を使い、享年が書かれたのではないかというのですね。
この計算方法を用いて、神武天皇の76年の在位期間を4で割ると19年、127歳から19年を引いた残りの108年を2で割ると54年です。
つまり、この計算方法では、神武天皇は54歳で即位し、19年在位したのちに73歳で崩御したということになるのですね。
紀元前660年の即位時に神武天皇が54歳だったのだとすれば、生まれたのは紀元前606年頃でしょう。
瓊々杵命は神武天皇の曽祖父ですから、100年ほど前に生きた世代ということになるでしょうか。
あくまでもひとつの考え方ですが、神武天皇の生まれた年を紀元前600年頃と考えると、瓊々杵命はその100年前の紀元前700年頃に生きた人ですから、天孫降臨はその頃だったと考えられるでしょう。
考古学の発掘成果から考える天孫降臨の時期
次に、2つめの手がかりは、考古学の発掘成果です。
考古学の発掘成果を元にした考察によれば、古代日本には、もともと日本列島に住んでいた人々がおり、そこに中国大陸、朝鮮半島などからいくつかの時期に分かれて渡来した人々が混血していき、現代の日本人が形作られたと言われています。
弥生時代の遺跡から発掘された人骨は、身長が高く、頭が長く、歯が大きいなど、縄文時代の遺跡から発掘された人骨とは異なった特徴があることから、弥生人は日本列島に渡来してきた人々と考えられているのです。
また、紀元1世紀ごろに渡来した弥生人のうち、製鉄技術、塩を作る方法などを日本列島にもたらした種族は、天孫族と呼ばれています。
天孫降臨の神話に、こうした弥生人の事績が反映された可能性はあるでしょう。
これもまた、あくまでもひとつの考え方ですが、瓊々杵命の天孫降臨は、考古学の発掘成果を元に考えれば、紀元1世紀頃のことだったと言えるのではないでしょうか。
日本列島への稲作の伝来はいつ頃だったのか?
日本列島に、稲作が伝えられたのはいつ頃だったのでしょう?
日本国内の遺跡の発掘により、日本では約6000年前に陸稲(田んぼではなく畑で栽培する)を行っていた可能性が指摘されています。
また、約3500年前の遺跡からは籾跡が、約2600年前の遺跡からは水田跡が発掘されました。
では、その稲がどこからもたらされたのかといえば、以前は、中国大陸から朝鮮半島を経由してもたらされたと考えられていました。
しかし、近年のDNA検査の発達で、出土品のイネのDNAを鑑定できるようになったこと、炭素測定法の年代測定の精度があがったことなどによって、もっと詳しいことがわかってきたのです。
これらの成果から現在では、稲作文化は、中国の長江下流域から直接日本列島に伝来したとする説が、現在は有力です。
日本列島の稲作文化は、以下のようにまとめることができますね。
- 約6000年前に陸稲の栽培をしていた可能性がある
- 中国の長江下流域から直接伝えられた
- 約2600年前には水田が存在していた
つまり、陸稲の栽培をしていた可能性から考えると、イネは約6000年前には日本列島で栽培されていたということですね。
天孫降臨は稲作の伝来のあとの出来事
天孫降臨は、稲作の伝来よりも後の出来事だったのです。
日本列島では、約6000年前には、陸稲が栽培されていた可能性がありました。また、約2600年前には、水田での栽培も行われていたのです。
それに対して、天孫降臨は、神武天皇の即位を紀元前660年にとして計算した場合で紀元前700年頃になり、天孫族と呼ばれる弥生人が渡来した時だとすれば、紀元1世紀頃。
つまり、他にもいくつか提唱されている時期はあるにせよ、神武天皇と弥生人の渡来から考えた天孫降臨の時期は、稲作の伝来よりもずっと後の時代だったことがわかります。
まとめ
天孫降臨は、稲作の伝来よりも後の出来事でした。
天孫降臨は、『日本書紀』に書かれた神武天皇の即位年から逆算した場合では、紀元前700年頃と考えられ、製鉄や製塩の技術をもたらした弥生人の渡来の時期だったとすれば、紀元1世紀頃だったと考えられます。
それに対して日本列島では、約6000年前にはイネの栽培をしていた可能性があり、約2600年前の水田の跡も発見されています。
文字史料が残されていない以上、決して断定はできません。
しかし、イネの考古学の成果を元にして考えると、天孫降臨は、イネの伝来よりずっと後の出来事だったと言えるでしょう。