談山神社とは?
奈良県桜井市に鎮座する談山神社。
藤原鎌足を主祭神として祀るお社です。現在は神社ですが、明治時代に神仏分離令が出されるまでは実はお寺。
談山神社は奈良県を訪れたら、飛鳥時代の歴史の息吹を感じるためにも、ぜひお参りしたい神社となります。
談山神社の御祭神
主祭神:藤原鎌足(ふじわらのかまたり)
摂社の東殿(別名・恋神社)には、創建の立役者である定恵、鎌足公の妻と言われる鏡王女、次男・藤原不比等が祀られています。
また、末社には、天照大神(アマテラスオオミカミ)、大山咋神(おおやまくいのかみ)、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)も祀られています。
談山神社のご利益
天智天皇と鎌足公が、蘇我氏を倒す計画を話し合ったゆかりの地にある神社ですから、ご利益は大きなことを成し遂げようとする人を後押しするような、所願成就・・・と思いますよね?
ところが、談山神社の一番有名なご利益は、なんと「縁結び」。
鳥居をくぐると、恋神社に続く参道がありますが、その名は「恋の道」。
恋神社に祀られている鏡王女は、鎌足公の正妻で飛鳥時代の歌人であり、『万葉集』には4首の和歌が収録されています。
そのうちの
神奈備の 石瀬の杜の呼子鳥 いたくな鳴きそ 我が恋まさる
という和歌は、鎌足公に先立たれた鏡王女が、夫を偲んで歌ったものなのだとか。
『万葉集』に残された和歌がいずれも恋の歌だったことから、鏡王女は、縁結びの神様として知られるようになりました。
それで、談山神社の最も有名なご利益が、縁結びとなったのですね。
その他のご利益には、お稲荷さんの商売繁盛、水、火、木の神様のご利益がありますよ。
また、秘仏として知られる談峯如意輪観音菩薩坐像(だんぽうにょいりんかんのんぼさつざぞう)のご利益は、足腰の病。
もしかしたら、鎌足公が落馬事故が原因で亡くなったことに関係しているのかもしれません。足腰の病を抱えている方は、特別公開される時に、参拝すると良いでしょう。
(2021年は6月1日〜7月31日に特別公開の予定です)
談山神社の境内と周辺の見どころ
何度も焼失した談山神社。ですが、現在の社殿のほとんどは、重要文化財に指定されている見応えのあるものばかり。
拝殿、楼門、権殿、東西の透廊は戦国時代、東西の宝庫は江戸時代初期、本殿と神廟拝所は江戸時代の建築です。
1532年(享禄5年)に再建された十三重塔は、世界でただ一つ現存する木造の十三重の塔。
是非じっくりと見学してくださいね。
談山神社の参拝おすすめ季節は?
また、談山神社は、桜と紅葉の名所としても有名です。
談山神社の参拝は、春か秋がおすすめ。
恋神社の前にある「むすびの岩座」は、神様が宿ると言われています。
願い事を唱えながら、むすびの岩座をなでて願掛けをしましょう。願掛けが終わったら、かわいらしいイラストが描かれた恋神社の「鏡王女恋絵馬」に願い事を書いて奉納を。
境内にある「けまりの庭」は、天智天皇と鎌足公が出会ったと言われる場所。ぜひ、飛鳥時代の息吹を感じてください。
談山神社は、奈良の観光地として有名な明日香村と吉野のどちらにもアクセスしやすい場所にあります。明日香村と吉野は、ここでは書ききれないほど見どころがある地域ですから、談山神社に参拝する時は、日程に余裕を持たせて明日香村と吉野も観光するととても楽しいですよ。
談山神社の歴史について
談山神社は、飛鳥時代に創建されました。
創建したのは、藤原氏の始祖である藤原鎌足の長男の定恵。(鎌足公は、生前の事績を語る時には中臣、藤原氏の始祖として語る時には藤原と表記します。)
中臣鎌足が、第38代天智天皇の右腕として、645年の乙巳の変で蘇我氏を倒し、大化の改新を共に進めた人物。669年(天智天皇8年)に亡くなった鎌足公は、摂津国(現在の大阪府)に葬られました。
その後、僧侶として唐に留学していた鎌足公の長男・定恵が、678年(天武天皇7年)に帰国。定恵は鎌足公の墓を摂津国から現在の談山神社の地に移し、その上に十三重塔を建てたのです。
これが、談山神社の始まりになります。
僧侶が建立したお寺が元です
お坊さんが十三重塔を建てたのですから、創建当時はお寺だったことがよくわかりますね。
その後、伽藍が整備されていき、多武峰妙楽寺という名前も付けられました。妙楽寺は、平安時代には天台宗の総本山・比叡山延暦寺の末寺となったのです。
そのことが原因で、藤原氏の始祖を祀る寺でありながら、藤原氏の氏寺・興福寺(奈良県奈良市)と氏神・春日大社(奈良県奈良市)との関係が悪化してしまいます。妙楽寺は、平安時代から戦国時代に至るまでの間に、何度も焼き討ちに遭っていますが、そのうちの何件かは寺領争いが原因となって、興福寺が火をつけたのだとか。
ともに藤原氏ゆかりのお寺だったのに、なかなか仲良くするのは難しいのですね。
江戸時代の談山神社
江戸時代になると、徳川家康から寺院の領地として幕府が公式に認めた土地である朱印領を与えられます。こうして、江戸時代に妙楽寺には、多くの子院が建てられて伽藍はますます発展していきます。
ただ、残念なことに明治時代になると、廃仏毀釈が行われて妙楽寺は廃止されてしまいました。これによって大勢の僧侶が還俗、つまり出家したお坊さんが俗人に戻ることとなります。これを機に談山神社という名前の神社に改められたのです。
「談山」という名前の由来は、天智天皇と鎌足公が、蘇我氏を倒す計画を、多武峰で行っていたから。
2人が語らっていた場所だったことから、多武峰は「談らい(かたらい)山」と呼ばれていました。それを記念して、「談山神社」と名付けられたのです。
中臣鎌足公とその墓所について
669年に亡くなった中臣鎌足公は、『日本書紀』によると、落馬事故が原因で亡くなったと考えられています。
鎌足公は、息を引き取る前日に藤原姓を賜り、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)となりました。
見舞いに訪れた大海人皇子(のちの天武天皇)から錦の冠もその時に賜ったのです。
鎌足公の遺体は、摂津国(現在の大阪府)に葬られました。
鎌足公の長男・定恵が、摂津国から墓所を移したのが談山神社の創建の由来となっていました。ところが、1934年(昭和9年)に世間をあっと驚かせる大発見があったのです。
京都大学の地震研究所が、大阪府高槻市と茨木市にまたがる阿武山に、観測施設を建設中に、かわらや巨石を掘り当てました。さらに詳しく調べたところ、古墳が発見されました。この古墳は阿武山古墳と名づけられています。
墓室には、石で作られた棺ではなく、夾紵棺(布と漆を何重にも貼り合わせて作る棺)があり、内部には60歳前後の男性のミイラが眠っていました。この夾紵棺は、日本で初めて発見された貴重なものなのです。
錦の刺繍糸とともに眠っていたその男性は、天皇家の貴人ではないかと考えられたため、墓を暴くことは不敬罪に当たるとして埋め戻されてしまいます。
詳細な調査がその時になされなかったことが惜しまれますね。
しかし、京都大学の地震研究所は、埋め戻す前に遺物の写真とミイラのX線写真を残していたのです。
1982年(昭和57年)に発見されたそれらの写真は、1987年(昭和62年)に詳細に解析されました。
その結果、発見された男性は、腰椎などを骨折しており、受傷後しばらくは生きていたものの、ケガが元となった感染症で亡くなったことが判明。
さらに、発見された錦の糸の散らばり具合の解析から、錦が冠の刺繍糸だったことが明らかになったのです。
- 鎌足公の亡くなった満年齢が55歳で、ミイラの年齢に近いこと
- 落馬事故が原因で亡くなったこと
- 亡くなる前日に錦の冠を賜っている
ことから、阿武山古墳の主は、鎌足公だとする説が主流になっています。
飛鳥時代の他の貴族ではないか、とする説も中にはあります。ただ、『日本書紀』に記載された亡くなった状況と発見された遺体の状況が合致していることと、出土した遺物を考えると、鎌足公の可能性が非常に高いと言えるでしょう。
では、定恵が鎌足公の墓所を移したという談山神社の創建由来はどうなるのでしょう?
おそらく、遺体を掘り出して改葬したのではなく、墓誌や遺品、あるいは古墳の土などを移したのではないでしょうか。
その上に十三重塔を建て、定恵は父親をしのんだのでしょう。
談山神社へのアクセス
・公共交通機関を利用する場合
JR西日本・近畿日本鉄道桜井駅下車、南口バス停1番乗り場より談山神社行きバス乗車約10分、バス停談山神社下車、徒歩3分 もしくは桜井駅よりタクシー利用で約15分
・車を利用する場合
大阪方面より→南阪奈道路葛城インター下車、国道165号経由、約35分、
名古屋方面より→名阪国道針インター下車、国道369号経由、約20分
まとめ
奈良県桜井市に鎮座する談山神社。
藤原鎌足の長男によって、初めはお寺として創建されました。天智天皇と鎌足公の出会いの場所に創建されたお寺は、妙楽寺と名付けられます。
ところが、天台宗と関わりを持ったことで、藤原氏の氏寺・興福寺と氏神・春日大社との関係が悪化。何度も焼き討ちにあい、落ち着いたのは江戸時代になってから。
しかし、明治時代の廃仏毀釈によって、お寺から神社へと変えられ、時代の波に翻弄され続けたのです。
桜と紅葉の名所としても知られる談山神社。
ぜひ、春か秋に参拝してくださいね。