神奈川県高座郡(かながわけんこうざぐん)に鎮座する寒川神社。
相模国(現在の神奈川県)の一ノ宮であり、全国で唯一の八方除の守護神を祀る神社として知られています。
寒川神社に祀られている御祭神は、寒川比古命(サムカワヒコノミコト)と寒川比女命(サムカワヒメノミコト)の二柱。
この二柱の神様を、寒川大明神として祀っています。
ところで、多くの神社で祀られている神様は、主祭神が一柱、さらに摂社・末社にも神様が一柱ずつという形式が多いですよね。
ではなぜ、寒川神社では、同じ名前をもつ二柱の神さまを大明神として祀っているのでしょう?今回はこの謎について考えてみたいと思います。
寒川神社はどんな神社?
寒川神社は、相模国の一ノ宮として知られる神社。
全国で唯一の八方除の守護神を御祭神とする神社として全国的に有名なパワースポットとしても知られています。
御祭神は、一対の男女神からなる、寒川大明神。
江戸時代以降は、関八州(関東地方の8つの国のこと)の守護神として、寒川神社は信仰されてきました。
また、江戸の町から見て南西の方角にあることから、江戸の裏鬼門を守る神社としても、徳川幕府から大切にされてきたのです。
裏鬼門を守るため、多くの神社では南向きか東向きに建てられる社殿。寒川神社の社殿は、珍しい南西を向いて建てられたもの。
そもそも、「ヒコ」や「ヒメ」ってなに?
さて、御祭神の御祭神・寒川比古命(サムカワヒコノミコト)と寒川比女命(サムカワヒメノミコト)の名前に見られる、「ヒコ」「ヒメ」とは何なのでしょう?
簡単に言ってしまうと、名前の最後につけて、性別を表すものです。
「ヒコ」は男性を、「ヒメ」は女性を表しています。
皆さんの周りにももしかしたらいるかもしれません。「勝彦」「和彦」など、名前に「彦」の字が使われている男性。
現代でも男性の名前に「ヒコ」の音を持つ「彦」の字は多く使われています。
一方のヒメはというと、最近のキラキラネームブームで「姫」を「キ」と読ませる使われ方は見ますが、女性の名前に直接「ヒメ」の音を持つ名前は少ないです。「姫」や「媛」という字を使った名前自体あまり見かけないのではないでしょうか。
古代のヒコとヒメ
では、古代ではどうだったのか見てみましょう。
『日本書紀』や『古事記』で古代の人の名前を確認すると、何名かは見つかります。
- 気長足姫:第14代仲哀天皇の皇后、神功皇后
- 堅塩媛:第29代欽明天皇の妃、蘇我稲目の娘
など、名前に「ヒメ」という音を持つ女性の記録を複数、見つけることができました。
他にもいろいろな文献を見て見ますと、江戸時代までは大名家にも「〇〇姫」という名前を持つ女性がいたことがわかります。
女性の名前の最後に「ヒメ」の音を使わなくなったのは明治維新以後なのかもしれません。
いずれにせよ、「ヒコ」が男性、「ヒメ」が女性を表していることから考えると、寒川神社では一対の男女の神さまを「寒川大明神」として祀っていることがわかります。
では、寒川神社で一対の男女の神さまを祀った由来は何だったのでしょう?
寒川大明神の正体は?
寒川神社に一対の男女の神さまが祀られた由来は、おそらく地域を統治していた祖先を祀ったことです。
寒川神社の公式サイトによれば、寒川大明神は『相模国を中心に広く関東地方を開拓し、衣食住などの生活の根源を指導した』と紹介されています。
先に、相武国造が氏神を祀ったのが、寒川神社の創建由来だという説があることをご紹介しました。
素直に考えれば、祀られた氏神は相武国造の祖先であり、関東地方を開拓した相模国の統治者だったと考えられます。
ところで、埼玉県行田市(さいたまけんぎょうだし)の稲荷山古墳(いなりやまこふん)からは、「ワカタケル大王」の名が刻まれた剣が出土し、国宝に指定されています。
おそらくこの剣は、当時の武蔵国(むさしのくに、現在の東京都と埼玉県)を治めていた権力者が「ワカタケル大王」から賜った剣を、亡くなった際に墓に納めたものなのでしょう。
雄略天皇の名が、大泊瀬幼武であることから、「ワカタケル大王」は雄略天皇とする説が有力です。
つまり、雄略天皇の御代には、大和国(現在の奈良県)から現在の東京都や埼玉県にまで朝廷の支配が及んでいたということ。
埼玉で見つかっている朝廷の痕跡からみると、その間にある神奈川県の寒川神社に、同様に雄略天皇(ここでは、ワカタケル大王とする)が奉幣を行った記録が残っていても、何も不思議ではありません。
稲荷山古墳の主が武蔵国を治めていた統治者だったと考えられているように、寒川大明神も、相模国を治めていた統治者だったのでしょう。
つまり、古代社会における相模国の統治者を記念して神さまとして祀ったのが、寒川大明神であると推測されます。
さらに、これもおそらくですが、「ヒコ」「ヒメ」の名前に現れているように、一対の男女による共同統治者だったのでしょう。
古代社会の男女共同統治とは
寒川大明神が一対の男女による共同統治者を神さまとして祀ったものだとしても、実際に共同統治は行われていたのでしょうか?
結論から言えば、古代日本では、男女による共同統治が行われていたのです。
共同統治と言えば、協力して国づくりを行った二柱の神さまの伊邪那岐尊(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)を思い浮かべる方は多いのではないでしょうか。
また邪馬台国では、女王・卑弥呼がシャーマンとして君臨する一方、卑弥呼の弟が政治などを司り、姉弟による共同統治が行われていました。
『古事記』『日本書紀』『風土記』を読むと、これらの例以外にも、男女による共同統治が行われていたことを示すような記述を見つけることができます。
一対の男女は、イザナギとイザナミのように夫婦だったり、邪馬台国のように姉弟だったり、あるいは父と娘、母と息子など、さまざまな組み合わせだったことでしょう。
第33代推古天皇は、聖徳太子を摂政にすえ、政治を行いました。この2人の関係は、実は叔母と甥です。
推古天皇と聖徳太子の関係も、広い意味で捉えれば「ヒコ」「ヒメ」の共同統治だと言えるでしょう。
このように、一対の男女による共同統治は、古代日本では多く行われていたのです。
他のヒコ・ヒメ二柱が祀られている神社
では、現代の日本に、古代の共同統治の名残はあるのでしょうか?
まだ仮説の段階ではありますが、地名に「ヒコ」「ヒメ」とつく名前を持ち、二柱の神さまを祀る神社は、古代の男女による共同統治の名残と考えます。
地名に「ヒコ」「ヒメ」とつく名前を持つ男女の御祭神を祀る神社としては、寒川神社の他には、以下の神社が知られています。
奈良県生駒郡の龍田神社
大阪府柏原市の鐸比古鐸比賣神
これら以外には、地名に「ヒコ」あるいは「ヒメ」を祀る単独の神社がいくつか残されています。
その地域の統治者が、神さまとして子孫や地域の住人によって祀られたのでしょう。
おそらく、長く年月を経るうちに、どちらかが何らかの理由で失われ、片方だけが残されたのでしょう。
古代日本では組み合わせがさまざまなバリエーションを持っていたとしても、男女による共同統治が行われていた歴史があることがわかりました。もしかしたら現代の日本より、女性の社会参加が進んでいたのかもしれませんね。
寒川神社の歴史
現在では、あらゆる災厄を取り除く開運神社として、全国から参拝客が集まってくる寒川神社。
残念ながら、詳しい史料が残っていないため、寒川神社の正確な創建年代はわかっていません。
一説によれば、相模川より東の地域を治めていた相武国造が、氏神を祀ったのが寒川神社の始まりだと考えられています。
また『風土記』には、第21代雄略天皇の御代に奉幣(天皇の命令で神社などに幣「ヌサ」などをささげること)の記録があり、その頃にはすでに寒川神社が存在していたのでしょう。
雄略天皇の御代に存在していたのであれば、寒川神社は創建から1,600年以上にも及ぶ歴史を持つ神社だということですね。
寒川神社へのアクセス
・公共交通機関を利用する場合
JR東日本相模線宮山駅下車、徒歩5分
・車を利用する場合
小田原厚木道路伊勢原インター下車、県道44号経由、約17分、
圏央道寒川北インター下車、県道46号経由、約5分
まとめ
神奈川県に鎮座する寒川神社は、八方除で有名な神社で、関東地方で有数のパワースポットとして知られています。
寒川神社の御祭神は、寒川比古命(サムカワヒコノミコト)と寒川比女命(サムカワヒメノミコト)の二柱を寒川大明神として祀っています。
詳細な創建の由来は不明ですが、恐らく相模国を開拓し、人々を豊かな生活に導いた男女の統治者だった祖先を祀ったのが始まりなのだとか。
古代の日本では、一対の男女による共同統治が行われていました。
寒川大明神は、まさに古代の共同統治の名残。
共同統治の名残と考えられる痕跡は、寒川神社以外の神社にも残されています。
皆さんのご自宅近くの神社に祀られている神さまが、地域名の後に「ヒコ」「ヒメ」が付いていたら、古代の共同統治者が祀られていた痕跡かもしれませんよ。
一度、調べてみると良いでしょう。