歴史上の人物が神様として祀られている神社特集

神社には、さまざまな創建の由来と成り立ちがあります。

日本の神社の中で一番数が多いのは、おそらく、『古事記』と『日本書紀』に出てくる神さまが祀られている神社でしょう。

例えば、伊勢神宮の天照大御神あまてらすおおみかみはその代表例ですね。

しかし、神社は古事記や日本書紀に出てくる神さまが祀られているものだけではありません。

皆さんが教科書や大河ドラマで名前を知ったような、歴史上の人物が祀られている神社がたくさんあるのです。このように、神社に祀られた人間が神さまとなったことを人神ひとがみといいます。

今回は歴史上の人物が神様として祀られている神社をお伝えします。

歴史上の人物が祀られる2つの理由

歴史上の人物が人神として、神社に祀られたのには、大きく2つの理由があります。

  • 偉大な業績を上げた偉人を称えるため
  • 歴史上の人物の怒りを鎮めるため

歴史上の人物を称えるため

1つめの理由は、偉大な業績を上げた方や地域にゆかりのある偉人を、その遺徳をたたえて神さまとして祀るというもの。

例えば、豊臣秀吉とよとみひでよし。尾張(現在の愛知県西部)の農民の子として生まれた秀吉公は、初めは駿府の今川義元いまがわよしもとの家臣の家来となり、のちに尾張の織田信長おだのぶながのもとに仕えます。機転の効く人物だった秀吉は、信長に気に入られ、メキメキと頭角を現して出世しました。

ついには、本能寺の変で信長が亡くなったのちに織田家中で実権を握り、信長公の死後からわずか3年で関白にまで出世したのです。貧しい身分の出身から太閤と呼ばれるまでに出世した遺徳をたたえ、神さまとして祀ったものなのです。

歴史上の人物の怒りを鎮めるため

2つめは、その歴史上の人物が非業の死を遂げ、死後にさまざまな怪異現象が起きたのをその怒りによる祟りとして人々が恐れ、神さまとして祀ることでその怒りを鎮めようとしたこと。

非業の死を遂げた人を恐れ、敬うことを御霊信仰ごりょうしんこうと言います。

例えば、受験生の強い味方である天神さま。菅原道真すがはらのみちざねが天神さまだということは皆さんご存知でしょう?

道真公は無実の罪で右大臣から太宰府の長官に左遷させられ、失意のうちに亡くなりました。道真公の死後、無実の罪を被せた人たちが次々に亡くなります。ついには、朝廷の大切な会議中に清涼殿に落雷があり、大勢の朝廷の役人が亡くなっただけではなく、その惨状を目の当たりにした天皇も崩御してしまいました。

道真公の祟りを恐れた人たちは、神様として祀ります。そして太政大臣の位を追贈(死後に位を贈ること)したのです。

このように、非業の死を遂げた人が祟りを起こすのを恐れ、神さまとして祀ることで、その怒りを鎮めようとしたのですね。

歴史上の人物の遺徳をたたえて祀った神社

歴史上の人物の遺徳をたたえて祀った神社は、実はたくさんあります。今回は特に有名な戦国武将に絞ってご紹介します。

武田信玄(たけだしんげん)

武田信玄公は、1521年(大永元年)に甲斐国(現在の山梨県)の守護・武田信虎公(たけだのぶとらこう)の嫡男として生まれました。

元服して武田晴信(たけだはるのぶ)と名乗ります。家督を継いだのち、信濃国(現在の長野県)を平定するなどして、勢力を拡大しました。上杉謙信と川中島で何度も戦ったのが有名ですね。山梨県の有名なお菓子に「信玄餅」と名付けられているように、信玄公の地元・山梨県での人気は絶大なものがあります。

1573年(元亀4年)、京都を目指して進軍中に三河国(現在の愛知県西部)で病死しました。遺言により、その死は3年間秘密にされたと言われています。

武田神社(たけだじんじゃ)

 

山梨県甲府市に鎮座。第123代大正天皇が即位した時、信玄公に従三位の官位が追贈されました。それをきっかけに、信玄公を慕う山梨県の人たちが官民一体となって神社を創建することを決め、信玄公の屋敷・躑躅ヶ崎館つつじがさきやかたの跡地に、1919年(大正8年)に社殿が建立されました。

武田大神として祀られている信玄公は、甲斐国の守護神として慕われています。

勝負だけではなく、人生そのものや自分の弱さに勝つ勝運の神さまとしても親しまれていますよ。

武田神社の境内には、信玄公に娘が誕生したときに産湯に使ったと言われる姫の井戸があります。御神水が湧き出ており、お水を頂いて運気をアップすることができるパワースポットとして有名です。

容器を持参しても良いですが、社務所で購入できる武田家の家紋入りのペットボトルを購入するのも参拝の良い思い出の品になることでしょう。信玄公の屋敷跡に建立された武田神社周辺は、信玄公の史跡が境内の外にも多く存在します。また、昇仙峡や積翠寺温泉などの観光地もありますから、ぜひ参拝のあとに立ち寄ってくださいね。

アクセス

JR東日本中央本線甲府駅より山梨交通バス武田神社行乗車、バス停武田神社下車、徒歩8分

 

上杉謙信(うえすぎけんしん)

上杉謙信公は、1530年(享禄3年)に越後守護代・長尾為景公(ながおためかげこう)の四男として生まれました。幼名を虎千代、元服して長尾景虎(ながおかげとら)と名乗ります。

四男でありながら19歳で家督を継ぎ、越後の守護代となりました。

31歳で関東管領の上杉家の養子となり、上杉政虎と改名、さらに管領職も引き継ぎます。長尾景虎が関東管領職を引き継いだことに不満を持ったのが甲斐国の信玄公で、何度も川中島で戦った遠因になりました。信玄公は、生涯に亘って「長尾」と呼び、決して「上杉」とは呼ばなかったのだとか。

非常に戦上手な武将だった謙信公は、その生涯でほとんど戦に負けたことがありませんでした。1578年(天正6年)、謙信公は次の戦に向けた準備中に居城の越後春日山城で急死したのです。

上杉神社(うえすぎじんじゃ)

山形県米沢市に鎮座。謙信公の後を継いだ養子の上杉景勝うえすぎかげかつが関ケ原の戦いの翌年(1601年)に米沢藩に転封されたあと、謙信公の遺骸も越後の春日山城から米沢城に移され、仏式で大切に祭られ続けました。

明治維新後、謙信公の魂は神式で祀られることになり、1876年(明治9年)に米沢城の本丸跡に建立された上杉神社の御祭神となったのです。

戦上手でほとんど敗け知らずの謙信公のご利益は、勝負運や仕事運の向上。そうした運気を上げたい方に参拝をおすすめしたい神社です。

米沢城の跡地に建立された上杉神社の周辺には、上杉伯爵邸を改装した上杉記念館があります。山形の郷土料理を味わうことができますので、参拝後にぜひ立ち寄ってくださいね。

アクセス

JR東日本奥羽本線米沢駅より山交バス湯元駅前行乗車8分、バス停上杉神社前下車、徒歩4分、もしくは米沢駅より徒歩約30分

 

織田信長(おだのぶなが)

織田信長公は、1534年(天文3年)に尾張の織田弾正忠家(おだだんじょうちゅうけ)の当主・織田信秀おだのぶひでの子として生まれました。

幼名を吉法師、元服して織田信長と名乗ります。織田家はもともと越前国(現在の福井県)の神官だった一族。実母に疎まれた信長公は、若い頃にわざとうつけ者のふりをして身の安全を図っていたと言われています。

信秀公の死後に家督を継ぎ、駿府の今川義元公を1560年(永禄3年)に桶狭間の戦いで撃破しました。戦国史上最大の大番狂わせと言われたこの勝利で、信長公は全国にその名を轟かせたのです。

室町幕府第15代将軍足利義昭あしかがよしあきを警護して上洛したのち、全国各地の武将と戦った信長公は天下人へと駆け上がっていきます。しかし、天下統一が目前に迫った1582年(天正10年)、最も信頼していた家臣・明智光秀あけちみつひでに本能寺に滞在していたところを攻められ、亡くなりました。

建勲神社(たけいさおじんじゃ)

京都市北区に鎮座。1869年(明治2年)に、「戦国時代、日本がスペインやポルトガルに侵略されずに済んだのは、信長公が天下統一を目指して国をまとめていた功績が大きい」として、その遺徳を称えるために第122代明治天皇によって創建が決められた神社です。

1870年(明治3年)、信長公の子孫が治めていた山形県天童市内と東京の天童藩領主の邸宅内の2箇所に建勲神社が創建されました。その後、1880年(明治13年)に、豊臣秀吉公によって信長公の廟所として定められていた京都の船岡山に、天童藩主の東京の邸宅内に祀られた建勲神社が遷座されたのです。

天下統一によって安寧の世を実現しようとした信長公のご利益は、大願成就・難局突破・国家安泰。何か大きな目的や目標を抱いている方におすすめの神社です。

建勲神社の周辺には、金閣寺や上賀茂神社など見どころがたくさん。また、船岡山の麓には船岡温泉があります。大正・昭和の趣を色濃く残した風情ある建物の温泉で、露天風呂も楽しめます。宿泊は京都の町家を利用したゲストハウス。1日1組限定のみですが、日帰り入浴が可能ですから参拝後にぜひ。

アクセス

JR東海道本線・山陰本線京都駅より徒歩で下京区総合庁舎前バス停に移動、市営バス西加茂車庫前行乗車26分、バス停堀川鞍馬口下車、徒歩12分
下京区総合庁舎前バス停より市営バス七条堀川行乗車35分、バス停船岡山下車、徒歩5分

*建勲神社の表参道には急な石段がありますので、バス停船岡山から北参道で参拝するのをおすすめします。

豊臣秀吉(とよとみひでよし)

豊臣秀吉公は、1537年(天文6年)に尾張国中村郷(現在の名古屋市中村区)で生まれました。農民もしくは足軽の子と言われています。

駿府の今川義元公の家臣に仕えたあと、尾張の信長公に仕えました。非常に頭の回転が早かったようで、信長公に気に入られ、織田家家臣の中で頭角を現し、低い身分から近江国(現在の滋賀県)にあった長浜城の城主に出世します。

主君の信長公が本能寺の変で亡くなったあと、明智光秀公を破り、天下人へと駆け登っていきます。信長公の死後からわずか3年で関白にまで出世し、天下統一を果たしました。しかしその後、朝鮮半島に無理な出兵を行なったり、後継者に指名していた甥の豊臣秀次とよとみひでつぐを一族もろとも死に追いやったりするなど、豊臣家に暗い影を落とすような行動が多くなっていきます。

1598年(慶長3年)、秀吉公が京都の伏見城で亡くなってから、豊臣家が天下の覇権を失ったのはわずか2年後のことでした。

 

豊国神社(とよくにじんじゃ)

京都市東山区に鎮座。1598年(慶長3年)の秀吉公の死の翌年、遺骸は阿弥陀ヶ峰に埋葬され、廟所が建設されました。

さらに朝廷から、秀吉公に「豊国乃大明神(とよくにのだいみょうじん)」という神号が下賜され、阿弥陀ヶ峰の廟所に豊国神社が創建されます。

しかし、1615年の大阪夏の陣で豊臣家が滅亡すると、第108代後水尾天皇の許可を得た江戸幕府が秀吉公の神号を剥奪し、豊国神社も廃絶しました。社殿はそのまま残されましたが、修理を許されず荒れほうだいになったのです。

その後、明治天皇によって豊国神社の再興が命じられ、1880年(明治13年)に社殿が完成。阿弥陀ヶ峰の山頂には、秀吉公の廟所として五輪塔が新しく建てられました。

低い身分から太閤にまで出世した秀吉公を祀った豊国神社のご利益は、仕事や出世の開運。秀吉公の逸話に基づいた太閤出世草履お守りや、馬印にちなんだひょうたんの絵馬などがありますよ。

豊国神社の周辺もまた、観光スポットがたくさん。三十三間堂には徒歩5分、清水寺には徒歩20分で移動できますから、気持ちの良い季節に参拝して、周辺を散策してくださいね。

アクセス

JR東海道本線・山陰本線京都駅より徒歩約20分、もしくはバス停京都駅前から市営バス烏丸七条行乗車7分、バス停博物館三十三間堂前下車、徒歩4分

 

徳川家康(とくがわいえやす)

徳川家康公は、1543年(天文11年)に三河の土豪である松平氏の当主・松平広忠公(まつだいらひろただこう)の嫡男として生まれました。

わずか3歳で両親の離縁によって生母・於大の方と生別。6歳で駿府の今川氏に人質として送られるところを、家臣の裏切りで尾張の織田家に送られました。織田家で信長公と出会い、弟のように可愛がられたと言われています。

今川氏と織田氏との人質交換で駿府に送られ、そこで成長し元服。今川義元公が桶狭間の戦いで信長公に敗れたあと、松平氏の居城・岡崎城を今川氏の支配から取り返し、信長公と清須同盟を結び、天下統一の手助けをしました。戦国時代に布教で来日したイエズス会士のルイス・フロイスは、著書『日本史』の中で信長公と家康公を「兄弟のように仲が良い」と書き残していますから、2人はそれほどに親しい間柄だったのでしょう。

信長公が本能寺の変で亡くなったあと、秀吉公に抵抗しますがその配下となり、江戸に転封され忍耐の日々を送ります。

秀吉公の死後、1600年(慶長5年)に関ケ原の戦いで豊臣家の覇権を奪い、江戸に幕府を開き、1616年(元和2年)に駿府城で亡くなりました。

久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)

静岡県静岡市に鎮座。久能山は、もともと信玄公が久能城という城塞を築いていた天然の要害です。家康公も非常に重視していた場所だったのですよ。

1616年(元和2年)に、家康公が亡くなったあと、その遺骸は遺言によって久能山に葬られました。1617年(元和3年)に江戸幕府第2代将軍徳川家忠公(とくがわいえただこう)によって久能山に社殿が造営されます。その頃、日光にも社殿が建築され始め、のちに家康公は日光に分霊されたのです。

家康公のブレーンだった天海僧正の「大明神は豊臣家が滅亡しているから縁起が悪い」という意見が通り、家康公は「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」という神号を朝廷から賜り、神さまとして祀られました。以前は、家康公の遺骸は日光に改葬されたと考えられていましたが、近年の研究でその説には否定的な意見が多くなり、久能山の廟所に埋葬されているという説が有力になっています。

久能山東照宮のご利益は、出世運、上昇運に加えて現状を変える運気。何かを変えたい方におすすめです。

お守りには、おなじみの葵の御紋が入っていますよ。久能山周辺は、いちご農園が有名な地域。いちご狩りのシーズンに参拝して、参拝後にいちご刈りを楽しむのもおすすめです。

アクセス

JR東海道本線静岡駅南口よりしずてつバス久能山下行乗車31分、バス停久能山下下車、徒歩4分

 

明智光秀(あけちみつひで)

明智光秀公の前半生はよくわかっていません。江戸時代に書かれた『明智軍記』によれば、美濃国(現在の岐阜県)の守護・土岐氏の支流である明智光綱公(あけちみつつなこう)の子として生まれ、早くに父を亡くし、叔父の光安公(みつやすこう)に育てられました。

従姉妹には、信長公の正室・帰蝶(きちょう、通称濃姫)がいます。1556年(弘治2年)、主君・斎藤道三公(さいとうどうさんこう)がその子・義龍公(よしたつこう)に敗れた際に、越前に落ち延び、朝倉義景公(あさくらよしかげこう)に仕えます。朝倉氏仕官中に、室町幕府第15代将軍・足利義昭公、生涯の友人となる細川藤孝公(ほそかわふじたかこう)と出会いました。

義昭公と信長公の間を取り持ち、室町幕府と織田家両属となり、活躍します。信長公が義昭公を見限ったのち織田家専属の家臣となり、信長公から深く信頼され、右腕と呼ばれる存在になりました。

1581年(天正9年)には「浪人だった儂を取り上げてくださった信長様の恩義を明智家の者は忘れてはならない」と『明智家中軍法』(あけちかちゅうぐんぽう)に書いたにも関わらず、その翌年に光秀公が本能寺の変を起こして信長公を死に追いやった理由は、現在も判然としていません。1582年(天正10年)、山崎の戦いで秀吉公に敗れ、小栗栖(おぐるす)で落ち武者狩りに遭い、亡くなったと言われています。

御霊神社(ごりょうじんじゃ)

京都府福知山市に鎮座。もともとは宇迦之御魂(うがのみたまのかみ)を祀る稲荷神社でした。福知山の領主として、福知山の地名を決め、町を整備し、氾濫する川の治水工事をするなどの善政をしいた光秀公は、本能寺の変ののちも福知山の人たちから大変慕われており、福知山のお寺で供養されていたのです。

江戸時代に福知山で天災が相次ぎ、「実は光秀公の本能寺の変は無実で、お怒りなのではないか」と考えられるようになりました。1705年(宝永2年)、福知山城の城主となった朽木氏が、お寺で供養されていた光秀公を稲荷神社に人神として祀ることを認めたのです。

福知山の御霊神社は、今では光秀公を祀った神社として有名になりました。

実際に参拝してみると、境内には福知山を流れる由良川が決壊した時の水位看板があり、こんな高さまで水が来たのかと驚かされます。

福知山の御霊神社のご利益は、もともと稲荷神社だったので商売繁盛と五穀豊穣。

また、境内には思金神(オモイカネノカミ)と天之手力男神(アメノタヂカラオ)を祀ったと言われる願いを叶える「叶石」(かなえいし)があり、諸願成就のパワースポットとして有名ですよ。御霊神社から徒歩10分ほどの福知山城は、明治時代に取り壊されましたが、昭和になってから福知山市民の願いによって再建されたもの。市民の熱意で再建されたお城、ぜひ参拝後に立ち寄ってくださいね。

アクセス

JR西日本福知山線福知山駅下車、徒歩10分

 

御霊信仰の神社

御霊信仰の対象となった有名な歴史上の人物には、さきほどご紹介した菅原道真公の他に、平将門公(たいらのまさかどこう)、崇徳上皇(すとくじょうこう)があげられます。

菅原道真公(すがはらのみちざねこう)

 

北野天満宮(きたのてんまんぐう)

京都市上京区に鎮座。道真公の死後、都に数々起きた怪異現象を道真公の祟りと恐れ、怒りを鎮めるため、北野にあったお寺に祀ったお社が発展した天満宮です。ご利益はなんと言って
も合格祈願と学業成就。境内にある天神さまのお使い・牛の彫像は撫で牛と呼ばれ、親しまれる存在。撫で牛の頭を撫でたあとに自分の頭を撫でると頭が良くなると言われています。

アクセス

JR東海道本線・山陰本線京都駅より徒歩で下京区総合庁舎前バス停へ、市営バス206系統七条堀川行き乗車26分、バス停千本今出川下車、徒歩8分

 

太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)

福岡県太宰府市に鎮座。京都の北野天満宮とともに、全国にある天満宮の総本社で、道真公の死後、都に続いた怪異現象をその祟りと考えた人たちによって、道真公の墓所の上に建てられたお社が発展した天満宮です。ご利益は合格祈願、学業成就。

アクセス

JR九州博多駅より地下鉄空港線姪浜行き乗車6分天神駅下車、徒歩で西鉄天神駅に乗り換え、急行花畑行き乗車19分西鉄二日市駅下車、西鉄太宰府線に乗り換え各停太宰府駅乗車5分、太宰府駅下車徒歩4分

防府天満宮(ほうふてんまんぐう)

山口県防府市に鎮座。北野天満宮、太宰府天満宮とともに「三天神」と呼ばれています。太宰府に流される途中、防府の親類の屋敷に立ち寄った道真公は、この地にとどまりたいと願いましたが、その願いは叶いませんでした、道真公が太宰府で亡くなった後、防府の港に光が現れたのを、土地の人々は道真公の魂が帰ってきたと考えたのです。

生前の望みを叶えようと、魂の居所として建立したお社が発展しました。ご利益は、合格祈願、学業成就です。

アクセス

JR山陰本線防府駅より徒歩約20分、もしくは天神口2番乗場より阿弥陀寺行きバス乗車5分、バス停防府天満宮下車、徒歩3分

平将門(たいらのまさかど)

平将門公(たいらのまさかどこう)は、平安時代中期の関東の貴族。第50代桓武天皇(かんむてんのう)から数えて5代目の子孫にあたります。

将門公が巻き込まれた関東の平家一族同士の争いは、やがて関東一円の戦乱となってしまいました。その混乱の中で国司の印璽を奪った将門公は、第61代朱雀天皇に対抗して新皇と名乗り、東国の独立を宣言して朝敵となったのです。

940年(天慶3年)の即位から2ヶ月後に、従兄弟である平貞盛公(たいらのさだもりこう)と藤原秀郷公(ふじはらのひでさとこう)に討ち果たされました。

神田明神(かんだみょうじん)

東京都千代田区に鎮座する神社。江戸総鎮守の神社で、正式名称は神田神社と言います。御祭神は将門公の他に、大己貴命(オオムナチノミコト、大国主命のこと)、少彦名命(スクナヒコノミコト、えびすさまのこと)。

神田明神はもともと、大己貴命(オオムナチノミコト)が祀られていたお社でした。疫病の流行を、関東で乱を起こして平定された将門公の祟りと考えた人たちによって、鎌倉時代に将門公は合祀され、御祭神の一柱になったのです。

将門公のご利益は、厄除けと勝負ごと。関ケ原の戦いに臨む前に徳川家康公が参拝し、見事天下分け目の戦いを制したことでも有名ですよ。

神田明神は近年、秋葉原に近いことから人気アニメの舞台となり、アニメファンの聖地巡礼スポットとしても大人気です。神田明神周辺には、湯島聖堂やニコライ堂など、みどころがたくさん。ぜひ、参拝後に周辺を歩いて散策してくださいね。

アクセス

JR東日本中央線・総武線御茶ノ水駅より徒歩5分、京浜東北線・山手線秋葉原駅より徒歩7分
東京メトロ銀座線末広町駅より徒歩5分

 

崇徳上皇(すとくじょうこう)

崇徳上皇は百人一首に収録されている「瀬を早み 岩にせかるる滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」という和歌で有名な平安時代末期の天皇です。

第75代天皇としてわずか数え5歳で即位しました。しかし、父親である第74代鳥羽上皇から疎まれ、退位を迫られたのです。鳥羽上皇の崩御後に起きた保元の乱で、第77代後白河天皇に敗れ、四国の讃岐に流されました。

都に帰りたいと望みながらも果たせず、1164年(長寛2年)に讃岐で崩御しました。

白峯神宮(白峯神宮)

京都市上京区に鎮座。保元の乱に敗れた崇徳上皇は、罪人扱いされ、崩御後も許されなかっただけではなく、その死を後白河天皇は無視しました。

しかしその後、都で大きな事件が立て続けに起こり、さらに上皇を讃岐に流したことに関わった人たちが、相次いで亡くなります。崇徳上皇の怨霊の仕業と恐れた人たちは、讃岐の白峯陵(崇徳上皇の陵)の前に御影堂を建て、崇徳上皇を白峯大権現として祀ります。

幕末に国が乱れたことを憂いた第121代孝明天皇は、幕府に崇徳上皇の神霊を讃岐から京都に移すように命じました。孝明天皇が崩御して果たせなかったことを、現在地に白峯神宮を建立した第122代明治天皇が果たしたのです。

白峯神宮の社地は、蹴鞠けまりの宗家だった堂上家・飛鳥井家の屋敷跡地。それがゆかりとなって白峯神宮は、サッカーを始めとする球技全般、スポーツの守護神として親しまれる存在になっていますよ。

ご利益はスポーツや芸事の上達。

参拝したら、サッカー日本代表にばったりと出会うなんてあるかもしれません。白峯神宮の周辺には、平安時代の有名な陰陽師・安倍晴明あべのせいめいを祀る晴明神社だけではなく、見どころがたくさん。ぜひ、参拝後は周辺を散策してくださいね。

アクセス

JR東海道本線・山陰本線京都駅より市営地下鉄烏丸線乗車9分、今出川駅下車、徒歩9分
もしくは市営バス西加茂車庫前行乗車25分、バス停堀川今出川下車、徒歩1分

*白峯神宮の近くには京都御所、同志社大学今出川校舎がありますので、迷ったらそれらを目印にすると良いですよ

まとめ

神社に神さまとして祀られた歴史上の人物、人神。

人神として祀られるのには大きく、「遺徳を称えて祀る」「祟りを鎮めるために祀る」の2つの理由があります。

皆さんがお住いの地域にも、人神が祀られている神社があるはず。どんな人が祀られているのかを調べると、郷土史に興味が湧いてくるかもしれません。

この記事では代表的な神社をご紹介しました。ぜひ、参拝の参考にしてくださいね。

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