【いまさら聞けない】神仏習合って何なの?神社・仏閣の基礎知識

神社やお寺のことを調べていると、「神仏習合」という言葉をよく見かけます。

ただ、存在自体は知っていても、神仏習合の中身をしろうと勉強する方となるとごくわずかなのではないでしょうか。

今回は意外と知らない、神仏習合について簡単に理解できるように説明していきます。

神仏習合ってなんだろう

神仏習合、簡単ににまとめてみると、

神道と仏教が混ざりあった信仰の形

と説明できるものです。

神仏習合とは、日本にもとからあった古神道に、仏教が混ざり合い、独自の信仰の形になったことを指している単語です。実は宗教が混ざるということは、世界的に見ても非常に珍しい宗教的な現象なのですよ。

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は、いずれも旧約聖書を経典として用いていますが、これらの宗教が混ざり合って、別の新たな信仰の形を生み出してはいません。

しかし、日本では神仏習合によって、長い年月の間に日本の神話に登場する神さまが仏教の仏さまと同一視されるようになっていったのです。

神仏習合はいつから?

いつ頃から神仏習合が始まったのかははっきりしていませんが、奈良時代から盛んになり始めます。

日本では、お坊さんが、神社の神主さんとお寺の住職を兼任している状態が、何世紀も続いていました。

以前、「神社でおばあさんがお経をあげていたのでびっくりした」という書き込みをSNSで見かけたことがありますが、これは時代によっては普通のお話。

実は、神社とお寺が別々のものとして分けられたのは明治時代になってからのことなのです。

神社の本殿で、神主と兼任のお坊さんがお経をあげる姿は、江戸時代以前はありふれた光景だったのですよ。

神仏習合の歴史

神仏習合がいつ頃に始まったのか、正確にはわかっていないのです。

しかし、日本に伝来した仏教を、天皇家や豪族が厚く信仰するようになった頃から、神道と仏教は少しずつ距離を縮め、溶け合っていきました。神仏習合の歴史を、さかのぼって見てみましょう。

神道の始まり

 日本列島は、自然が豊かであると同時に、災害の多い列島です。古代の人々は山や川、海などに神さまが宿り、自分たちを見守ってくれているのだと考えていました。

一方、日本列島の大自然は、時には大きな災害をもたらす存在。

人々は、恵みとともに災厄をもたらす大自然を畏れ敬い、祭祀を行うようになっていきます。

こうして始まった古代の祭祀の場が、神社の元となって発展していき、神道が生まれました。日本古来の神さまを敬う神道は、他の宗教と異なり、教義らしいものがありません。

神さまを崇めながらも、教義らしいものがなかった神道の鷹揚さが、仏教と融合していく下地になったのでしょう。

仏教の伝来は争いをもたらした

大和やまと(現在の奈良県)に王朝が誕生し、大王家(現在の天皇家)を中心に、豪族たちも日本古来の神さまを祀っていました。

そんな古代日本に、大きな転換期が訪れます。

それは、第29代欽明天皇きんめいてんのうの御代となる552年(538年という説もあります)に、大陸から仏教がもたらされたことです。

仏教をもたらした豪族は、朝廷の財務を担っていた蘇我稲目そがのいなめ。しかし、物部尾輿もののべのおこし中臣勝海なかとみのかつみなど、古神道を大切にしていた豪族たちは、蘇我氏に反発して寺を焼き討ちするなどしました。

物部氏と蘇我氏の仏教をめぐる争いは、尾輿の子・守屋もりや(もりや)、稲目の子・馬子うまこの時代に、さらに激化していきます。その結果、神道を推す物部氏と仏教を推す蘇我氏の戦いに発展しました。

大王家(現在の天皇家)の王子たちは蘇我氏とともに物部氏と戦い、蘇我氏の勝利に貢献します。

この戦いの後、聖徳太子(しょうとくたいし)が蘇我氏と協力し、仏教を厚く信仰するように豪族と民衆に説いたことで、仏教は急速に広まっていきました。

天皇家が仏教を厚く信仰するようになる

聖徳太子の時代から広まった仏教は、時代とともに大王家(現在の天皇家)だけではなく、豪族からも厚く信仰されるようになりました。

やがて、仏さまは、人々だけではなく、神道の神さまも救う存在として捉えられ始めたのです。

神様も人間と同じように、悩み苦しみ、救いを求める存在であるとする考えを、心身離脱説しんしんりだつせつと言います。

この考えに基づいて、神社の隣に、神さまを守り救うためのお寺(神宮寺、別当寺といいます)が建立され始めました。

第40代天武天皇てんむてんのう、第41代持統天皇じとうてんのうの時代になると、天皇の病気の平癒を願ってお寺が建立されたり、仏像が作られたりするようになり、天皇家の仏教への帰依はますます深まっていきます。

また、心身離脱説が浸透していく中で、日本古来の神さまも仏さまを尊敬し、仏法を守りたがっているのだとする考えが起きてきました。

この考え方を、護法善神説ごほうぜんしんせつと言います。

ヒンズー教の神さまが、仏教の護法神として取り入れられて四天王や金剛力士になったように、日本古来の神さまも仏教に取り込まれていきました。

最初に仏教と合わされた神道の神様は?

最初に仏教と合わされた神様は、

八幡神(はちまんしん)

八幡の神様が最初に仏教の護法神として取り入れられました。

745年(天平勝宝4年)、第45代聖武天皇しょうむてんのうが、現在も残る大仏を奈良の東大寺に建立しました。

このときに、宇佐八幡宮うさはちまんぐうの神様が、大仏の守り神となりたいと強く望んだという神託の記録が残っています。こうして、仏さまと仏法を守る存在として、日本古来の神さまは考えられるようになりました。

神道と仏教に微妙な関係が生まれる

天皇家の始まりが、天照大御神(アマテラスオオミカミ)の孫・瓊々杵命(ニニギノミコト)であることをご存知でしょうか。

天照大御神(アマテラスオオミカミ)の子孫ですから、天皇家は神さまの子孫。

ところが、聖徳太子以降、天皇家が仏教を厚く信仰するようになったことは、大変微妙な問題を発生させてしまいました。神さまの子孫であるはずの天皇が、仏さまを熱心に拝むという、なんだかおかしな事態が当たり前になってしまったのですから。

 

この状態を数式を用いて書くと、「仏さま>神さま」。

 

これでは、天皇家の祖先神を下に見ているかのようです。

なんとかして、この微妙な神さまと仏さまの関係性を解消しようとした神官や僧侶が言い出したのか、あるいは人々の間から自然に生まれてきたのかはわかりませんが、信仰に変化が起こります。

「神さまと仏さまは同じもので、神さまは仏さまがこの世に現れたもの」である。

このような考え方が、平安時代の半ば(10世紀)に成立しました。

この考え方を、本地垂迹説ほんじすいじゃくせつと言い、本地が本当の姿である仏様で、垂迹が仮の姿で神様となっていると考えられています。

神道と仏教が融合していく間には、

  • 神さまも人間と同じように悩み苦しみ、仏さまに救いを求める存在だとする考え
  • 神さまも仏さまを尊敬し、仏法を守りたがっているとする考え
  • 神さまと仏さまは同じもの

と、考え方が3段階に成熟していく過程がありました。

10世紀に成立した「神さまと仏さまは同じもの」という考え方は、日本に深く根付き、多くの美術品や工芸品を生み出したのです。

1,000年以上続いた神仏習合の終わり

前述のように「神さまと仏さまは同じもの」という考えが主流になっていき、神社とお寺が隣り合っている状態は、江戸時代の幕末まで続きました。

神仏習合が奈良時代から盛んになったと考えれば、1,000年以上もの間「神さまと仏さまは同じもの」という考え方が、日本では普通に行われていたのです。しかし、明治維新政府によって、その関係は終わりを告げました。

第122代明治天皇めいじてんのうを天照大御神(アマテラスオオミカミ)の子孫として仰ぎ、欧米の列強に対して肩を並べ、強い態度で臨むと決めた明治維新政府は、神仏を分離させる命令を出します。

しかし、一部の過激な神官やお寺に反感を持っていた民衆が、命令をきっかけに暴徒と化してしまい、お寺の貴重な文化遺産が徹底的に破壊されてしまいました。明治維新政府は、お寺や仏像の破壊まで望んではいなかったので、慌てて命令を取り下げます。

しかし時すでに遅く、残っていれば国宝や重要文化財に指定されていたかもしれない、多くの美術品や工芸品や歴史的な史料が、この時代に失われてしまいました。

もし、こうした失われた史料が今も残されていたら、日本史の教科書の記述は大きく変わっていたかもしれませんね。

古事記に出てくる神さまと仏さまの対比表

本地垂迹説では、神さまの正体は本地仏ほんじぶつと呼ばれる仏様。宗派などによって違いがありますが、代表的なものを以下の一覧表にまとめてみました。

古事記、日本書紀の神様

本地仏

伊弉冉尊(イザナギノミコト) 釈迦如来(しゃかにょらい)
伊弉諾尊(イザナミノミコト) 千手観音(せんじゅかんのん)
天照大御神(アマテラスオオミカミ) 大日如来(だいにちにょらい)
素戔嗚命(スサノオノミコト) 牛頭天王(ごずてんのう)
月読尊(ツクヨミノミコト) 阿弥陀如来(あみだにょらい)
火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ) 千手観音(せんじゅかんのん)
大己貴神(オオムナチノカミ) 千手観音(せんじゅかんのん)
少彦名命(スクナヒコノミコト) 金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)
市寸島比売命(イチキシマヒメノミコト) 弁財天(べんざいてん)
木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト) 浅間大菩薩(せんげんだいぼさつ)
大国主命(オオクニヌシノミコト) 大黒天(だいこくてん)
瓊々杵命(ニニギノミコト) 釈迦如来(しゃかにょらい)
天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト) 弥勒菩薩(みろくぼさつ)
火遠理命(ホオリノミコト、山幸彦) 文殊菩薩(もんじゅぼさつ)
天手力男命(アメノタヂカラオノミコト) 不動明王(ふどうみょうおう)
八幡神(ハチマンシン、応神天皇) 阿弥陀如来(あみだにょらい)
猿田彦命(サルタヒコノミコト) 青面金剛(しょうめんこんごう)
宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ、お稲荷さん) 十一面観音(じゅういちめんかんのん)
宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ、お稲荷さん) 荼枳尼天(だきにてん)
菊理姫命(ククリヒメノミコト、白山比咩神) 十一面観音(じゅういちめんかんのん)
天思兼命(アメノオモイカネノミコト) 虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)

宗派によって考えが異なるため、同じ仏さまが複数の神さまの正体として考えられています。「神さまと仏さまは同じもの」という考え方の中にも、細かな違いがあるのです。

まとめ

神仏習合は、神道と仏教が混ざりあった日本の独自の信仰の形です。

神道に教義らしいものがなかったこと、仏教がヒンズー教の神さまを取り込んだように、互いに持ち合わせていた鷹揚さが、神道と仏教が混ざり合う結果に、強く作用したのでしょう。

時代とともに、「神さまは仏さまがこの世に姿を現したもの」という考え方が主流になっていきました。

神仏習合を奈良時代から盛んになったと考えれば、1000年以上、日本では仏さまと神さまが「同じもの」として祀られていたのです。お寺のお坊さんが、神社の神主を兼任していることは、江戸時代以前にはごくごく普通のことだったのですね。

ぜひ、お住いの近くにある神社やお寺の関係を、図書館などで調べてみてくださいね。

 

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