鎌倉宮とは?
神奈川県鎌倉市に鎮座する鎌倉宮(かまくらぐう)。
1869年(明治2年)に創建された、比較的新しいお社です。
悲劇の最期を遂げた皇子の御霊をなぐさめるために、第122代明治天皇によって創建されました。
境内の奥には、今も悲劇の皇子の史跡が残されています。
皇子の家臣にちなんだ身代わりのご利益と、盃を割る厄除けが有名です。森の中にある厄除けと身代わりのお社。今回は鎌倉宮を解説していきます。
鎌倉宮の御祭神
第96代後醍醐天皇の皇子・護良親王(もりながしんのう)
持明院南御方(じみょういんみなみのおんかた)
村上彦四郎義光(むらかみひこしろうよしてる)
持明院南御方は護良親王の側室。村上彦四郎義光は親王の家臣となる神様です。
御祭神の歴史について
護良親王は、天台座主を務めていましたが、後に還俗し、征夷大将軍になったのちに、足利氏によって悲劇的な最期を迎えた皇子で、子供の頃から大変利発なだけではなく、運動神経も優れた方でした。
持明院南御方は、中納言藤原保藤の娘で、還俗した親王の側室となった女性です。
護良親王が京都から鎌倉に流された際に、ただひとりだけ付き従うことを許され、身の回りの世話をし、その没後に、親王の最期の様子を後醍醐天皇に伝えました。
村上彦四郎義光は、親王の家臣。
本拠地の吉野城を攻められた親王は、一時、自害を覚悟するほど追い詰められます。
その時、重症を負っていた村上彦四郎義光は、親王の身代わりとなることを決意し、親王の甲冑を着て自害しました。
村上彦四郎義光の犠牲によって、護良親王は高野山に逃げ延びることができたのですね。
ご利益
鎌倉宮の有名なご利益に身代わりがありますが、上の故事によるものです。
その他のご利益としては、魔除けと厄除けが有名ですよ。
護良親王ってどんな方?
1308年(延慶元年)、護良親王は第96代後醍醐天皇の皇子として生まれました。
生まれながらに利発な親王でしたが、皇位継承権争いから脱落したのか、6歳で仏門に入ります。
親王の生母は今も判明していません。
おそらく母親の身分がそれほど高くはなく、その実家からの後見がなく、皇位を望めない立場だったのでしょう。
出家後、比叡山に入った親王は、尊雲法親王と名乗り、わずか20歳で天台座主につき大塔宮と呼ばれるようになります。
利発なだけではなく運動神経にも優れていたと言われていた親王は、学問や仏門の習得よりも、武術の訓練を好んだのだとか。
しかし、親王のこの好みは、のちに悲劇的な運命への引き金となってしまうのです。
一方、倒幕の意志を抱いた後醍醐天皇は、1331年(元弘元年)に元弘の乱を起こします。
ところが、その計画は幕府に漏れ、延暦寺の僧らが幕府に呪詛をかけたとして捕縛されました。
その中の僧侶が、親王が武術の鍛錬をしており、幕府を呪詛していたと事実ではないことを幕府に告げてしまったのです。
幕府によって護良親王は死罪、後醍醐天皇は隠岐の島に配流を言い渡されました。
護良親王は後醍醐天皇に身代わりをたてて逃し、自らも逃亡したのです。
しかし、潜伏場所が幕府に突き止められた後醍醐天皇は隠岐の島に流され、護良親王は父に成り代わって倒幕のための勢力を募ります。
護良親王は熊野(和歌山県)に逃れたのち、吉野(奈良県)で還俗して挙兵しました。
1333年(元弘3年)に後醍醐天皇は隠岐の島を脱出、船上山で倒幕挙兵の勅を出します。
後醍醐天皇の勅に応えた足利尊氏らが上洛し、六波羅探題を攻め落とす一方、護良親王の命令で幕府を攻めた新田義貞は、幕府を滅亡させたました。
こうして鎌倉幕府は滅び、後醍醐天皇は建武の新政を行い、護良親王を征夷大将軍に任命します。
しかし、護良親王は、足利尊氏公と対立するようになりました。
この二人の対立を、後醍醐天皇の妃のひとりが悪用します。
妃は足利尊氏公と共謀して、護良親王を追い落とす計画をたてたのです。
わが子(後の第97代後村上天皇)を天皇にしたい妃と、自らが征夷大将軍となりたい足利尊氏公にとって、護良親王は目障りな存在だったのですね。
護良親王が天皇を排除し、親王自らが帝位に就こうとしていると嘘の情報を流し、それを信じた天皇は激怒。
護良親王の言葉に一切耳を貸さず、足利尊氏に身柄を拘束させたのです。
護良親王は、身の回りの世話をしてくれる側室を一人だけ連れて行くことを許され、鎌倉に流されました。
1335年(建武2年)、北条氏の残党が中先代の乱(なかせんだいのらん)を起こし、関東地方で足利氏は北条氏に敗れます。
北条氏が護良親王を利用して、幕府の再興を図ろうとするのを恐れた足利尊氏公らは、親王を殺害しました。
そのわずか2日後、鎌倉は北条氏によって攻め落とされます。
護良親王の死は、後醍醐天皇の勢力を大きく削ぎ、足利尊氏公の勢力を拡大する結果を生みました。
もし、北条氏が鎌倉を陥落した時に護良親王が生きており、北条氏と合流していたら、日本の中世の歴史は大きく違ったものになっていたかもしれませんね。
鎌倉宮の歴史は?
1869年(明治2年)、建武の中興に貢献した護良親王の遺徳をたたえるため、明治天皇は御霊を祀る神社の建立を命じ、鎌倉宮と名付けます。
同じ年の7月、護良親王が幽閉された鎌倉の東光寺跡地に鎌倉宮は建立されました。
鎌倉宮の見どころ
鎌倉宮の鳥居は、全国的に見ても、珍しい赤と白の2色。
その鳥居をくぐり、参道を進むと、正面に拝殿があり、その奥に本殿と摂社の南方社(みなみのかたしゃ)と村上社(むらかみしゃ)があります。
村上社には、境内の樹齢100年以上の欅の大木から掘り出した、村上彦四郎義光の木像の撫で身代わりがあります。
撫でることで厄除け・病気平癒のご利益があるのだとか。皆さん、治したいところを撫でるので、あちこちがツルツルになっていますよ。
盃割り舎
拝殿の前にある盃割り舎では、盃に息を吹きかけて石に投げつけて割り、厄除けができます。
盃を思いっきり投げつけて割り、厄を落としましょう。
手水舎
お守りも人気
鎌倉宮のお守りで人気が高いのは、護良親王が戦いに赴く際に兜の中に忍ばせた、獅子頭に由来するお守り。
玄関や車に飾ると良いのだとか。
獅子頭をストラップにした板型もありますから、社務所でお好みのものを選ぶと良いでしょう。
有料ですが、鎌倉宮が東光寺だった頃の、護良親王にまつわる史跡も拝観が可能です。
親王が幽閉されていたと伝承のある土牢(つちろう)、首が置かれた場所という後構廟(ごびょうこう)が本殿の後方にありますので、興味のある方は見学してみると良いでしょう。
血塗られた歴史のある場所なのですが、静かな森の中にあり、不思議と心の落ち着く場所ですよ。
遊歩道も気持ちの良い道ですから、鎌倉宮に参拝したら見学すると良いでしょう。
ただし、興味本位で見学するのではなく、護良親王に対する敬意をきちんと持って見学するように。
鎌倉宮へのアクセス
公共交通機関を利用する場合
JR東日本横須賀線・江ノ島電鉄鎌倉駅下車、京急バス大塔宮行き乗車約10分、バス停大塔宮下車、徒歩1分
車を利用する場合
横浜横須賀道路朝比奈IC下車、県道204号経由、約15分
まとめ
神奈川県鎌倉市に鎮座する鎌倉宮。
悲劇的な最期を遂げた皇子の御霊をなぐさめるため、明治天皇(めいじてんのう)によって建立されました。
魔除け・厄除け・身代わりがご利益として有名な鎌倉宮。
何か悪いものから身を守りたい、厄を落としたい、病気を治したい・・・と願う方は、一度お参りすると良いですよ!
鎌倉散策と兼ねて、ぜひ一度参拝しましょう!